タラさんが年内には故郷に帰ると偶然耳にして、野辺健太郎はショックを受けた。店員同士が話しているのを耳にしたのだ。自分でもショックを受けると想定していなかったので、ショックを受けたこと自体もショックだった。

　タラさんは、健太郎が通うコンビニエンスストアのレジにいる人だ。どこの国の人なのか、何歳なのかもわからない。三十一歳の自分よりは若そうだけれど、どのくらい若いのかもわからない。

　仕事を終えて、混んだ電車に乗って帰ってきて、駅から続くアーケードを抜けると住宅街になる。アーケードの出口にあるコンビニエンスストアに寄ってから帰宅するのが健太郎の日課だった。健太郎がはじめてタラさんに接客してもらったのは一年ほど前だ。鞄から財布を出すのにもたついて、うしろに人が並んでいないか確認しながら財布を引っ張り出し、小銭を用意していると、OKOKとタラさんは言い、何がOKなんだろうと健太郎が顔を上げると、ゆっくりでOKと言って笑顔を見せた。

　健太郎が寄る時間帯にタラさんはたいていレジにいる。最初は日本語もたどたどしく、チケットを発券したり宅配便の処理をしたりするのに手間取り、先輩バイトを呼んでいたけれど、みるみるうちに日本語も上達し、こまかい業務処理もテキパキこなすようになった。人なつこい性格らしく、健太郎がレジ台に置いたスナック菓子のバーコードを読み取りながら「これおいしい、私も大好き」と言ったり、お釣りを渡しながら「今日も一日おつかれさまでした」と言って笑ったりする。それまで健太郎は、コンビニエンスストアといえば、人の顔を正面から見ない、愛想のない店員しか知らなかったから、タラさんがそんなふうに話しかけてくれるたびにヒヤヒヤした。彼女が店長に怒られるのではないかと思ったのだ。

　しかしそのうち、そのコンビニの店員たち、ときどき見かける店長までもが、タラさんみたいな人間的な対応をするようになった。ありがとうございましたという声が機械的ではなく、「重いから気をつけて」とか「袋、ひとつにまとめましょうか」とか、お客に笑顔で話しかけるようになり、店員たちもなごやかに協力し合うようになった。タラさんも健太郎を覚えているらしく、レジに品物を置くと、「こんばんは」と笑顔で挨拶してくれる。なんとなく店内が所帯じみたけれど、仕事帰りに立ち寄る健太郎は、仕事でいやなことがあっても、大失敗をした日でも、ここで買いものをするとおだやかな気持ちになった。タラさんてすごい、タラさんがこの場の空気を変えた、と健太郎は感心し、自分も職場においてタラさんのようでありたいとすら、思っていた。

　日曜日、映画を見るために久しぶりに都心に出た健太郎は、映画館を出て、そのまま多くの人がいきかう町を歩く。デパートのショーウインドウはクリスマス一色だ。タラさんがやめる前に何か贈りたいと唐突に健太郎は思う。感謝の気持ちを、言葉だけでなく伝えたい。でも、引くかな。気持ち悪いと思われるかな。いや、あのタラさんが、気持ち悪いなんて言うはずがない。あまり負担にならないものがいい。あれこれ悩みながら歩いていた健太郎は、老舗の書画用品店の前で足を止める。店内に入ると、筆や墨のほかに、掛け軸、和紙の便箋や封筒、お香や匂い袋などがうつくしくディスプレイされている。テーブルの上に張り子の動物が並んでいるのに気づいて、健太郎は腰をかがめてそれらをじっくり見る。和紙の張り子はなんともいえないあたたかみがある。これだ、これがいい、軽いし、ちいさいし、かわいいし、このぬくもりはタラさんがあの店にもたらした雰囲気となんだか似ているし。

　来年の干支の動物を選んで、健太郎はレジに向かう。プレゼント用にしてくださいと言いながら、この張り子がこれからタラさんとともにする旅を想像する。