「私は広重の後継者だ」といった大それたものではなく、遊び心を込めたオマージュとして彼への敬意と愛情を表現しました。大英博物館で2025年5月から9月まで開催された展覧会「Hiroshige: Artist of the Open Road」では、広重に影響を受けた現代アーティストとして私の作品も展示され、とても光栄でした。日本美術におけるグラフィック性は卓越したもので、浮世絵から漫画まで一貫したスタイルと伝統の系譜が見られます。橋口五葉や川瀬巴水といった昭和初期の木版画家の作品も見ると、広重→巴水→宮崎駿といった流れを感じます。
Photos: Norman Wilcox-Geissen
Interview & Text: Megumi Yamashita(Architabi)
Direction in London: Runa Anzai(kontakt)
Production & Editing direction: Yuka Okada(81)
Q. GINZA SIX に展⽰される「Marathon. Women.」の作品制作は、どのようにスタートしたのでしょうか?
GINZA SIXのスペースの写真や映像を見て、VRシミュレーションをしながら作品の構想を練りました。過去に参加したアーティストによる作品も大変真摯に取り組まれたものですし、展示環境自体にも興味を持ちました。この賑やかな空間で意味を持ち、かつ、無理なく溶け込むような作品にしたいという思いが出発点です。ギャラリーや美術館は白い部屋が並ぶような空間ですが、実際の世界はそんなふうにはできていません。アートを外に持ち出し、GINZA SIXのような場所でより多くの人の目に触れる試みは、挑戦のしがいがあります。
公共空間でのアートプロジェクトに取り組む際は、注意を払っています。人を惹きつけるものでこそあれ、目障りであってはなりません。「なぜこんな巨大な作品がここにあるのか」と思われてはおしまいです。たとえば崖の上から海を眺めているときに、そこに彫刻があったらどう感じるでしょうか。それは押しつけがましく、自然を都市化してしまうような、うっとうしい存在になりかねません。そんな作品にならないように、気を付けています。
ロンドンのショーディッチにあるジュリアン・オピーのスタジオ。GINZA SIXで展示される「Marathon. Women.」の関連作品など、制作中の作品が整然と並んでいる。
Q. GINZA SIXという場所での展示ということで、考慮したことは?
極めて都市的な環境にあるGINZA SIXですが、館内の2階から5階の中央に4フロアを吹き抜いたアトリウムがあります。そこで、この空間を活かし、アトリウムの上から作品をケーブルで吊って、4フロアのどこからでも見える作品を考えました。アトリウム自体が長方形なので、その中に収まる同じく長方形のフォルムで、サイズは長さ10メートル、幅8メートル、高さ1メートル程度のLEDスクリーンです。大き過ぎると感じないよう、人間的なスケールに収めました。上下ともに開いた箱のような構造で、下から見上げても中と外が見え、上から見下ろしても中と外が見える。横からは「箱の側面」を眺めているような視点になります。
Q. 具体的には、女性ランナーが走っている映像作品です。
公園を歩く人々を撮影していたとき、ジョガーたちがカメラの前を何度も通り、うっとうしく感じたことがありました。でもその映像を後で見直すと、彼らの動きが非常に面白かったんです。バックパックやイヤフォン、水筒などがリズミカルに揺れていて、非常にいい動きだった。それで、競技ランナーを描いてみようと思ったんです。
「走る」ことは人間の基本的な活動で、人間はかつて動物が疲れ果てて倒れるまで、追いかけて狩りをしていました。私たちの足や姿勢や身体の構造も、そのために最適化されています。「走る」という行為は今も人間の本能に深く根ざした動きで、誰もが自分を重ねて見ることができます。
Q. モデルになったアスリートはいるのですか?
ロンドンのランニングクラブにコンタクトを考えていたら、イギリスの国際陸上競技大会のチームから、活動資金を調達するためのプリント(印刷物)を作ってくれないかと打診が来たんです。それは「家を探していたら、理想の物件が現れた」ような偶然でした。ランナーを探していたら、そこにトップアスリートのチームが現れたんですから。
プリントを作る代わりに、男女のチームに協力してもらい、彼らのトレーニングの様子を陸上トラックで撮影させてもらいました。あまりにも速く走るので、カメラを50メートルほど離れたところで構え、男女各8名ほどが駆け抜けていたところを、10回以上にわたって捉えました。半年分のプロジェクトに十分なほどの画像と映像を撮ることができました。
「Marathon. Women.」の7人のランナーが走る様子は、国際陸上競技大会の英国強化チームのトップアスリートをモデルに制作された。
Q. 今回のGINZA SIXでの作品では、女性ランナーだけが走っていることについては?
スポーツ競技の多くは、男女に分かれているのが一般的です。ですから、男女をミックスするのは不自然です。女性ランナーのチームを選んだのは、彼女たちの映像の方が使えるものが多かったこと。また、女性ランナーの方がわずかにスピードが遅く、映像として動きが読みやすくなります。髪をお団子にしていたり、ポニーテールだったり、ボディスーツや腹部が見えているウェアを着ていたりと、ビジュアルのバリエーションが豊かなこともありました。
アーティストは常に社会的、政治的な問題にぶつかりますし、その責任は感じています。が、同時に「いま目の前にある現実を映している」に過ぎないのも事実です。要するにプロフェッショナルなスポーツにおいては「男女別」が現実であり、無理に混合にしてしまったら、それはかえって不自然だということです。
Q. アスリートのサイズなど、工夫した点はありますか?
作品のスクリーンの高さは約1メートルで、そこに映るランナーたちは実際の人間の半分ほどのサイズになります。物体は小さいほど動きは「遅く見える」という性質があります。つまり、等身大のランナーが走っていたら、もっと速く見えるわけです。なので、スクリーンでのランナーは実際より遅く見えますが、彼女たちは撮影時と同じスピードで走っています。そして、誰かが誰かを追い越すなどの構成もそのままです。
私はこうした「自然な決定」を重視しています。そうすることで、見る人にとって自然に感じられるはずです。アンディ・ウォーホルは「何かを決断しなければならないなら、どこか間違っている」という言葉を残しています。何をするかはその前の段階によって決定されており、たどることのできる道筋があるのだということです。実際には私たちはさまざまな決断を下しているわけですが、できるだけそうした「自然の決定」を大事にしています。
スタジオでテスト中の「Marathon. Women.」のプロトタイプ。スクリーンで走るランナーは実際の約半分のサイズ。それによって実際より遅い速度で走っているように見える。
Q. 「自然の決定」について、もう少しお聞かせください。
自分が「選ぶ」というよりも、川の流れの中にある石を渡って行くように、目の前にあるものから「飛べる石を選ぶ」感覚でしょうか。つまり、これまでにやってきたことの流れの中で描くわけです。流れの真ん中まで来てしまえばもう元には戻れず、その時点で次に跳べる石を探すことになります。
それは真っ暗な部屋のドアをあけ、少しずつ何が使えるか手探りで探すような感覚です。やがて光が差し込んで見えるようになり、そこにあるもので創作ができるようになります。とはいえ突然「抽象画を描こう」とか「油絵を描こう」とはなりません。あくまで、自分が歩んできた道の延長で、選択をせねばなりません。
Q. あなたの作品には「動き」がテーマのものが多くあります。
「動き」は色やスケールと同じように、最も豊かな表現手段の一つです。「動き」を使えば、作品を躍動的にも穏やかにも、面白おかしくも見せることができます。題材の存在感や生命感を一気に高めてもくれます。たとえば、部屋で本を読んでいて視界の端で何かが動いたら、脳は瞬時にそれを感知します。誰かが襲ってくるかもしれないし、敵かもしれない、味方かもしれないと。「動き」は「反応せよ」と知らせる強力なシグナルです。
私はこれまで、人間のあらゆる「動き」を使って表現してきました。まばたきや微笑み、ダンス、赤ちゃんのハイハイ、歩く、バスに乗り遅れそうで走る、アスリートが走る、ダンサーが踊る、土曜の夜に酔っ払って踊る──こうした「動き」にはそれぞれ異なる性質があり、表現の可能性は無限です。
2025年春に開催されたニューヨークのリッソン・ギャラリーでの個展の様子。 絵、彫刻、映像など、さまざまな手法で「歩く」姿が表現されている。
Q. 「動き」を表現する上で、LEDの役割は?
今回の作品のスクリーンは、気温や株価情報を流す細長いLED電光掲示のような仕組みになっています。この「情報を表示する」ことは、LED技術の本質的なものです。実際には光が点滅しているだけで、光源が動いているわけではありません。それを脳が「動いている」と認識するわけです。アニメーションも同じ原理で、似たような絵が連続して表示されることで、脳がそれを「動き」として受け取ります。
たとえば今回のGINZA SIXの作品の場合、実際には物理的な動きがないのに、アスリートが細長いスクリーン上を走っているように見えるわけです。LEDはスクリーンの内側と外側の両方に配置されており、同じ人物の映像が内側と外側のさまざまな角度から見ることができます。LEDは技術面で進化していますが、基本的には大昔からあるモザイクやビーズ細工と同じく、「色のドット」から成る「情報共有システム」です。
Q. 色についてもお聞かせください。
色は装飾的な要素ですが、これも、実際には存在しないものです。つまり、光の波長の違いを脳が異なる色として認識しているにすぎません。私たちが実際に見ているのは「異なる波長」であり、色そのものではありません。
また、色は情報を示す「記号」でもあります。今回登場するランナーは7人の女性たちで、赤、青、黄、緑といった異なる色で表現しています。ランナーは個人ではなく「赤チーム」や「青チーム」といったチームの一員であることも意味します。黄のランナーを追ってみよう、青はどうだろう、といったように、目で追いやすいと思います。
Q. あなたの作品には一貫したスタイルがありますが、資材や技法は多岐に渡ります。
手で描くときは、黒い太いフェルトペンと紙を使います。最もダイレクトに情報を表現できるからです。つまり、自分の頭の中にあるイメージを、視覚的・構造的・物理的・彫刻的な「言語」に変えて外に出すという作業をしているのです。「線とは何か?」「ドローイングとは何か?」と考えると、その可能性は本当に無限です。その多様性のなかに、常に探究の余地はありますが。
たとえば石は重くて永続性を感じさせる素材です。子どもを題材にしたプロジェクトでは、黒御影石に彫って子どもを描いてみました。石が持つ重くて歴史を感じる重厚さに、子どものかわいらしさや柔らかさを対比させています。これによって、より豊かな意味や感情の層が表現できたと思います。
ある技術が特定のイメージに使えると気づいたり、逆にその技術によって新たなイメージがひらめくこともあります。イメージから技術へ、技術からイメージへと行ったり来たりする感覚です。新しい技術を発見しても、それを使えるイメージが浮かぶまで何年もかかることもあります。逆にイメージはあっても、それを実現するのに適した技術に出合うまで長くかかることもあります。
ロンドンのスタジオで進行中の制作の様子。子どもをモデルにしたシリーズは、石や木などさまざまな素材と手法で制作されており、それによって表現されることにも幅がある。
Q. 最新テクノロジーは積極的に取り入れますか?
アーティストの故ジェームズ・ローゼンクイストは、看板職人だった人で、彼の絵画はビルボードのイメージが元になっています。彼は「少し時代遅れで、少し使い古されたイメージ」をいつも引用していたと語っています。
私も誰も見たことのない最新技術を使いたいとは思いません。そうすると、技術自体が作品より目立ってしまうからです。あくまで「表現」のために技術を使いたいのです。「新しい技術があるよ、使ってみたら?」と言われても、まずは疑ってかかります。
見る角度で絵が切り替わったり、動いたりするレンチキュラー印刷も作品に取り入れていますが、これは19世紀からある技術です。アニメーション技術もほぼ同時期に発展したもので、現在でも漫画やアニメ映画という形で活用され続けています。
VR(仮想現実)は比較的新しい技術ですが、コンピューターゲームによって私はこの技術を体験するようになりました。ヘッドセットからゴーグルへと、VR体験は進化してきました。「身体ごと体験できる」という点で、これはとても興味深いです。
Public Digital Art Fund (2025)。ニューヨークの個展と合わせ、ロサンジェルスとボルティモアに登場した映像によるパブリックアートのシリーズより。こちらはLAのKIA フォーラムの前に登場した子どもが歩く作品。
Q. どのような方法で作品の「体験」を深めることができますか?
五感を使った体験型として、音楽を展示に取り入れたこともあります。観客の足音やシャッター音の代わりに、私がセレクトした音を聞いてもらえば、作品の世界観は強化されます。香りを加えた展示もしました。芳香剤を使ったわけですが、自分の選択で香りを加えたことに意味があると思いました。「たまたま」の香りではなく、「意図された香り」のある空間は、ユーモアの表現でもありました。
五感以外にも、身の回りの世界を体験する方法はいくつもあります。特に「空間認識」は重要な感覚でしょう。バランス感覚やスケール感を使いながら、空間全体を身体で感じることです。VRは視覚的かつ身体的な体験をリアルに再現する手段として大変有用です。私の場合、最初は展示設計のツールとしてVRを使っていましたが、実際の空間よりVR空間にいることの方が楽しく感じることもあって、そこから、リアルな展示は何もなく、VRゴーグルでのみ体験する展覧会にも挑戦しています。とはいえ、いかなる方法も深く考え過ぎると、逆にその不完全さに気づかされることもあります。
Q. AIに関してはいかがでしょうか?
AI(人工知能)は創造性への脅威ではなく、ポジティブなツールと考えています。最近では、自分の写真をマンガ風に変換できるソフトやアプリがあります。AIが写真をウォーホル風にしたり、果ては「オピー風ポートレート」に変換するものもあるんですよ。訴訟を起こすべきだという考えもありますが、これは面白い、と私は思いました。自分の描き方やスタイルが、ある種の「共有可能な技術」になり得るということなので。
マンガのスタイルは多くの人が模倣していますし、古代エジプト絵画は何千年にもわたって職人たちが同じスタイルで描き続けてきました。そう考えると、自分自身の描き方も個人的な表現というより、一つの「様式」として成り立ち得るのではないか、と思うわけです。
現在、AIに一定のルールを与え、それをもとにポートレートを描かせることに挑戦中です。来場者のポートレートをAIに生成してもらい、その場で展覧会の展示に加えるという企画です。ポートレートは肖像権やプライバシーへの配慮は非常に重要ですが、AIを使ったポートレート企画では、来場者自身が自ら希望して制作するものなので、その問題もクリアできます。2026年にインドのバンガロールで開催予定の展覧会では、そんな体験の実現を考えています。
マスキングしながらシャープなエッジを手描きしていく。極限まで簡略化するポートレートを「一つの様式」とし、「オピー風ポートレート」をAI生成する試みにも挑戦中。
Q. 日本との関係についてもお聞かせください。
日本には1990年代から何度も訪れています。いつも寛容に受け入れていただき、日本での仕事は楽しみのひとつです。最初の展覧会は名古屋で、そこから東京のギャラリーとも仕事をするようになり、香川県高松市のパブリックアートも制作しました。
日本のイメージや日本美術の歴史にも関心を持っていますが、キャリアの初期に出会ったのが浮世絵で、特に歌川広重や喜多川歌麿に強く惹かれました。鈴木春信も好きです。自分の作品に浮世絵を取り入れたいというより、自分の関心やスタイルと響き合うものを感じたのだと思います。
たとえば、歌麿が顔を描く際の黒い輪郭線。その自然で明快な美しさに心を打たれました。私の作品を歌麿のスタイルに重ね合わせる人もいるかもしれませんが、私にとって歌麿は「学びの対象」です。私たちは模倣を通じて学ぶのです。子どもは親を真似し、友達を真似し、本を見て読んで真似をします。そうやって、生きていく術を学んでいくのです。
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2019年に開催された展覧会より。
Q. あなたの作品には、歌麿や広重へのオマージュもありますね。
歌麿を引用したポートレートシリーズも制作しました。同じポーズを取り、そこにたとえばスマートフォンを持っていたりするものです。広重の「東海道五十三次」のルートを辿って富士山の周囲を車で巡り、アニメーションの制作もしています。これは「もし広重がコンピューターテクノロジーを使っていたら?」という想像からスタートしました。広重の浮世絵には常に「動き」が暗示されています。旗がなびく、鳥が空を横切る、子どもが通りを走る、雨が橋に打ち付けるといったように。浮世絵は静的なフォーマットですが、そこには「動き」が感じられます。そこで、雨が実際に降り、雨音が聞こえ、鳥が画面を横切るというアニメーションを制作しました。
「私は広重の後継者だ」といった大それたものではなく、遊び心を込めたオマージュとして彼への敬意と愛情を表現しました。大英博物館で2025年5月から9月まで開催された展覧会「Hiroshige: Artist of the Open Road」では、広重に影響を受けた現代アーティストとして私の作品も展示され、とても光栄でした。日本美術におけるグラフィック性は卓越したもので、浮世絵から漫画まで一貫したスタイルと伝統の系譜が見られます。橋口五葉や川瀬巴水といった昭和初期の木版画家の作品も見ると、広重→巴水→宮崎駿といった流れを感じます。
私の子ども時代の強烈なインスピレーションは、エルジェの『タンタンの冒険』でした。いわばフランス語版の漫画は物語性があり、ビジュアル言語を持つアート作品です。エルジェとウォーホルは友人だったそうで、ウォーホルがエルジェを描いたものもあります。彼らもまた広重に関心を持っていたそうです。こうした影響や参照の連鎖は常に続いており、そこに自分も関われることを光栄に思います。
「日本八景」シリーズの「国道五十二号線から南部橋をのぞむ」(2007) 。風がそよぎ水が揺れ、鉄橋を車が渡るという映像インスタレーション。
Q. 作品や展覧会を通じて伝えたいと思っていることはありますか?
「どんなことを感じ取ってほしいですか?」とよく聞かれますが、明確な答えはなく、言うなれば「私の関知するところではない」というところでしょうか。自分は砂場で遊ぶ幼児とか、新しい土地を開拓する探検家のようなものだと思っています。作品で自分の考えを伝えたいとか、こういうふうに感じてほしいというようなことはありません。
作品を見てもらうことは「一緒に遊ぼう、探求しよう、眺めてみよう」という誘いのようなものです。言葉での表現が苦手な私にとって、絵を描くことこそが表現の手段です。だから、作品の横に説明文を添えたり、音声ガイドで解説されるのも好みません。そこに隠れたメッセージや、理解すべき代替論理やストーリーなどありません。
ただ、自分のやったことを「見せたい」という欲求はあります。包装して地下室にしまい込んでおくのではなく、世に出して、みんなと共有したいのです。でも、展示後、人がどう感じるかを見守るようなことはしません。観客と一緒に歌ったり、手拍子を促したりするミュージシャンでもありません。パフォーマンス的なこともしません。そういうのは苦手だし、恥ずかしくてできません。私にできるのは、みんなの心を惹きつけ、興味を抱かせるような作品をつくることです。その中から何かしらが生まれて、他の体験へとつながっていけばうれしいですね。
スタジオの最上階には、古代エジプト、日本、17-18世紀のヨーロッパ、現代など、オピーが収蔵する各時代のアートが並んでいる。
Q. ご自身として、アートが他の体験につながったことはありますか?
私はいろんなアートを収集しています。現代美術、古代美術、日本美術、17世紀から18世紀のヨーロッパ美術などさまざまです。惹かれるのは、どれも向こうから自分の目に飛び込んでくるような作品です。おそらく、私の作品との親近感を抱いたり、あるいは、これから何ができるかを示しているからでしょう。
先日、娘とロンドンで開催中の奈良美智展を見に行きました。帰りの地下鉄のなかで周りの人がみんな奈良さんのキャラクターに見え、二人で笑ってしまいました。これは展覧会のロジックやムード、スタイルが、現実の世界に飛び火したということです。奈良さんの作品が私たちの何かを動かし、世界の見え方を実際に変えたわけで、アートが自分と共鳴したことの証です。
作品ができあがり、自分の手を離れた時点で「完成」とするアーティストもいるでしょう。が、私は作品が実際に誰かの前に置かれ、その人と交流が起こるまで「完成」とは考えません。その「体験」こそがすべてだからです。ぜひ、多くの人にGINZA SIXの「Marathon. Women.」を見ていただき、それを受け入れ、あるいは拒絶し、笑うなど、自由に感じてほしいと思います。どれもが価値ある「リアクション」で、それこそが作品の本質なのですから。
(2025年6月インタビュー)
Photos: Norman Wilcox-Geissen
Interview & Text: Megumi Yamashita(Architabi)
Direction in London: Runa Anzai(kontakt)
Production & Editing direction: Yuka Okada(81)
「Marathon. Women.」